世界レヴェルへの道

「弟子の等級」についての神聖的解釈

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■「弟子の等級」についての神聖的解釈

1 正式神聖賦与
正式神聖賦与とは、神の法の下、生井利幸が弟子に対して、「正式、且つ、神聖的に賦与する」という意味。弟子が、生井利幸によって、より上位のステージに引き上げられたときにこの表現が用いられている。正式神聖指導の範疇・枠組みに於ける正式神聖賦与は、そのすべてが「正式なる神聖的祝福」を意味する。

2 明示
明示とは、「明らかに示す」という意味。この表現は、弟子の「心のステージ」「時の刻み方」が、正式神聖賦与された時のステージよりも、”より低いステージ”に下がってしまったときに用いられる。弟子が、より低いステージに下がってしまったという真実を明示されることも、神の法の下では、一つの祝福である。その理由は、弟子は、自分のステージが上がっても下がっても、常に、「自分に於ける真実」を知ることができるからである。正式神聖指導の範疇・枠組みに於いて、「自分の真実を知らされる」ということは、一つの祝福である。

3 「正式神聖賦与」と「明示」の相違
正式神聖賦与は、そのすべてが「正式なる神聖的祝福」を意味する。明示は、弟子が、自分を律することを怠り、正式神聖賦与された祝福にしたがった行動をとることができず、弟子自身が自らその神聖的祝福を放棄・破壊したことを意味する。これをわかりやすく述べるならば、明示とは、生井利幸が弟子に対して、「弟子が神聖的祝福を放棄・破壊した後、今現在、弟子が位置する”より低いステージ”について明らかに示す」という意味を成す。

4 「律する」行為の神聖性
生井利幸の弟子が自分を律するとは、神の法の下、生井利幸が弟子に賦与する正式神聖指導の範疇・枠組みに於いて、命をはって弟子としての15の基礎条件を守り、迎える一秒一秒を、厳格に、且つ、神聖的に生きるということである。

5 努力して自分を律するのか、それとも、自然な行為として自分を律するのか
正真正銘の本物になることを目指すそのプロセスに於いては、弟子は、毎日、「厳格なる心のあり方」「相当なる努力」を介して自分を律し続ける必要がある。一方、将来に於いて、正真正銘の本物になった弟子は、律するという行為は、何ら、特別な行為ではなくなる。このステージに到達した弟子(正真正銘の本物になった弟子)に於いては、律するという行為は、「ごく当たり前の時の刻み方、そして、ごく自然な時の刻み方」となる。

6 「喜び」についての捉え方
正式神聖指導の範疇・枠組みに於いて、弟子が生井利幸から正式神聖賦与された指導・プロセスについての捉え方は、弟子が到達したステージが高ければ高いほど、賦与された指導・プロセスの神聖性について、よりしっかりと認識・理解できるようになるため、正式神聖指導の下での「『喜び』の度合い(程度)」は、ステージが高くなればなるほど大きくなる。

7 偽物と本物の違い
偽物は、事あるたびに構築したものを崩壊させる。本物は、何事があっても、構築したものを崩壊させない。

8 生きることは、学ぶことである
"To live is to learn."、・・・人間が生きるということは、人間が、「”より人間らしく”生きるを学ぶ」ということである。人間は、「”より人間らしく”(more human)生きるを学ぶ」その具体的プロセスに於いて、数多くの失敗を経験する。失敗は、「より人間らしく生きる」を学ぶ上で通る『通り道』である。

9 失敗すればするほどに、前に進める
失敗は、「より人間らしく生きる」を学ぶ上で通る『通り道』である。これを逆に述べるならば、失敗しない弟子は、前に進みにくい。弟子たちよ、失敗しなさい。勇気を持って行動して、失敗しなさい。何度失敗しても、また、失敗しなさい。

10 正真正銘の本物への道のり

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