生井利幸とジョルジュ・ド・ラ・トゥール
ミッションを持って勉強する
「人間は、一体何のために生きるのか」、・・・この問題は、これまでの人類の歴史において、哲学者、作家、芸術家等にとって、まさに、人間存在における根本の根本としての問題でした。
わたくし自身、子供時代において、人間の生き方について、様々な疑問を感じながら毎日を過ごしておりました。当時、わたくしは、子供ながらに、「人生、いかに生きるべきか」という人間存在としての根本問題について考え、そして、試行錯誤を繰り返してきました。「人生、いかに生きるべきか」という問題は、言うなれば、「人間はどのように生きるべきか」という問題です。
既に述べましたように、わたくしは、子供時代から、長い間、「人間の生き方」そのものについて考えてきました。そうした中、わたくしは、ある時期から、「人間は一体何のために生きるのか」という問題関心に自分の関心が傾向していったことを、今、鮮明に思い出します。
前述の2つの問題は、一見すると、似ている問題のように感じます。ところが、落ち着いて考えてみると、この2つの問題は、相当異なる問題であることがわかってきます。
1 「人生、いかに生きるべきか」
2 「人間は一体何のために生きるのか」
英語道弟子課程・第一稽古場(銀座書斎・「奥の聖域」)には、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(Georges de La Tour, 1593-1653)が描いた絵画、『大工ヨセフ』が飾られています。
この絵画は、洗練された明暗法を駆使し、清らか極まりない静寂の雰囲気の中、ヨセフが大工仕事をしている姿が描かれています。ヨセフの面前では、幼少のキリストが蝋燭を持ってヨセフを見守っています。
わたくしがこの絵画から感じることは、ヨセフの目線が表現する「聖なるミッション」の描写です。言うまでもないことですが、人間は、単に、「パンだけのため」に生きる生命体ではありません。本来、人間は、具体的に何らかの「ミッション」を持ち、そのミッションを行うために「生きる糧としてのパン」を食べるわけです。
本来に於いて、人間には、そうした自己の生き方において自らの「尊厳」を見出し、「ミッション遂行者としての生きる喜び」を感じる特権が賦与されています。
迎える一日一日に於いて、「自分なりのミッション」を持って生きてください。そうすると、生きるという行為の中に、具体的に、「自分なりの意味と意義」が生じます。
パンのために生きるのではなく、「自分なりのミッションを遂行するために、自分の人生を生きる」という考え方を持つことにより、さらに、より充実した毎日を送ることができます。
銀座書斎での勉強を通して「自分のミッション」を確立し、毎日、猛勉強を続ける、・・・銀座書斎での学びは、猛勉強を続けていく意味・意義・価値のある「本質的な勉強」です。
生井利幸は、今も昔も、学問として、「本質、及び、絶対的真理への道のり」のみを教授しています。
「人間の幸福・発展」のために勉強する
すべての動物には、「本能」(instinct)があります。動物は、「食べるため」、そして、「生き残るため」に毎日食べています。
同じように、人間にも、「本能」があります。人間も、他の動物と同じように、毎日食べていかなければ、生きていくことはできません。しかし、人間には、本能だけでなく、「知能」(intellect)もあります。知能は、「何らかの知的行為」を行う上で使う能力です。したがって、毎日、人間が生きるということは、毎日、知能を使うということでもあります。
人間が知能を使う、・・・それは、「人間は、知能を使い、より知的になる宿命を持っている」という意味を成します。わたくしは、日々、講演・講義等で、「人間が生きるということは、毎日、勉強することである」という趣旨のことを講じています。
しかし、毎日、勉強するといっても、勉強のための勉強では、何ら、意味を成すことはありません。「人間は、一体何のために勉強するのか」、・・・これは、勉強に於ける根本的問題です。
本質を述べれば、勉強は、勉強のためにするのではなく、「人間の幸福・発展」のためにするものです。具体的に述べると、本来、勉強という行為は、「人間愛、及び、人類愛を探究し、それを実現する」ために行われるべき行為です。
学習者が、このような「勉強における基本的方向性」についてしっかりと認識・理解し、それを忘れることなく一秒一秒を刻み続けるならば、常に「正しい方向に向けた勉強」をすることができるでしょう。
生井利幸とジョルジュ・ド・ラ・トゥール
◆正式神聖英語音声講義
<1>
⇒ A life-long mission as a Toshiyuki Namai's disciple(正式神聖英語音声講義)