世界レヴェルへの道 学問

「限界の限界」という境地<2>

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本日の早朝、「『限界の限界』という境地」<1>について、執筆・編集・掲載しました。本稿では、<1>の続編として、さらに具体的に講じます。

平凡人が捉える「普通の限界」は、実際には、”限界の域”ではありません。平凡人が捉える普通の限界は、実のところ、その当人に於ける(1) 「可能性」(possibility)、そして、(2)「潜在能力」(potentiality)を著しく減少させる役割を演じるものです。

真実を述べると、普通の人が捉える「限界」は、ご本人に於ける可能性を著しく低下させます。わたくしの捉え方について明言すると、普通の人が捉える限界には、「ネガティブな作用ばかりが生じ、蔓延するだけの、『極めて偏狭、且つ、地域的な要素』」しかありません。

普通の人が捉える限界を「第一の限界」と定義すると、わたくし生井利幸の弟子たちが経験すべき限界は「第二の限界」であると定義できます。「第二の限界」は、いわば、「限界の限界」。「第一の限界」の範疇で勉強していると、そこは、「地域的要素の宝庫」(ネガティブな意味での宝庫)。地域的要素に囲まれて生きていると、英知は、その対象・形体によっては、「美しい英知」「美しくない英知」という如き、”典型的認識・理解・把握”となります。

世界的教養人にとって、「美しくない英知」というものは存在するのでしょうか。実際、英知は美しいもの。教養人の見識の枠組みに於いては、「美しくない英知」「醜い英知」というものは、一切存在しません。

では、「美しくない英知」とは、一体どのような要素を原因として捉えられるものなのでしょうか。「美しくない英知」、・・・それは、自分の無教養・無見識・無知から生じるものです。

「すべての英知は、まさに美しい存在である」と捉えることができない弟子は、以下の考え方について深い思索を試みることを提案します。

"Ignorance is bliss."
(無知は至福である。)

この「無知は至福である」は、言うなれば、皮肉としての捉え方。これをわかりやすく言えば、「知らぬが仏」です。

弟子たちは、師から、"Ignorance is bliss."と言われないように、是非、「限界の限界」まで勉強してください。「限界の限界」まで勉強すると、そこには、困難も苦しみもなく、あるのは「至上の美」のみです。

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