正真正銘の真実として、師である生井利幸に自己の命をあずけて、人類共通の言語を介して、学問・文化・芸術を基盤として「本質・真理探究の道」を歩んでいる弟子であればわかることですが、英語道弟子課程には「定員」があります。
『英語道弟子課程には、弟子の人数に「定員」がある』、・・・その「定員」とは、普通の人では想像できないほど、「ごく少数の定員」です。
生井利幸は、一体どうして、英語道弟子課程に「定員」を定めているのか。
真実をそっくりそのままの形で述べると、英語道弟子課程の創設・存在があって「定員」があるのではありません。実際はその逆で、人類史という大枠の中で、”先に”、「その定員の普遍的意味」が存在しています。わたくし生井利幸は、「その定員の普遍的意味」を、発祥・源泉として、通常人にとっての”目に見える形”として、最高峰の英知が学べる「英語道弟子課程」を創設したのです。弟子たちにとっては、最高峰の英知を学ぶことにより、一般の大学や大学院等では決して学ぶことができない「人類の歴史・構造・メカニズム等に内在する本質・真理」を学ぶことが可能となります。
ごく少数の定員は、「どれほどまでに限られた人数」を指すのか。このことは、弟子自身、自己の命を、師である生井利幸にあずけて勉強していくその一秒一秒に於いて、(上辺としての)肌ではなく、「自己の中心核」「自己の命」で実感していくことができます。
生井利幸は、現在も、将来も、英語道弟子課程の「弟子の定員」を変更することはありません。弟子の定員には、普遍的意味があるため、変更することはできません。
英語道弟子課程の定員についての詳細は、概説ページに掲載されている「弟子課程の定員」を精読すると、より良い認識・理解を得ることができます。
概説ページ掲載の「弟子課程の定員」は、一度や二度、あるいは、それ以上の回数にわたって読んでも、知識欲から「文字」だけを読んでも何も感じないでしょう。この内容は、身を挺して、「自分の命」で読まない限り、「書かれている文章に内在する普遍的意味」を感じる取ることは不可能です。書き手が、知識ではなく「命」で書いた文章は、それを読む側に於いても、「命」で読まない限り、「文章に内在する本質的メッセージ」を感じ取り、それをしっかりと捉えることは難しいと言わざるを得ません。
補足:
「平和」「安定」の面前で胡坐(あぐら)をかいている人、「保障」という鉄棒にぶら下がって生きている人には、上記の「定員の意味」は永遠にわからないでしょう。