弟子たちは既に、わたくしから、『「自然」という概念と「超自然」という概念は、それぞれ異なる概念である』という真理について学んでいます。
わたくし生井利幸は「”超自然的”存在者」ですが、この地球上で日々刻み続ける一秒一秒の面前で、2つの経験をします。一つは、(1)「一秒に命をはることについての至上の喜び」、そして、もう一つは、(2)「一秒一秒を刻みながら、同時に、その一秒一秒を失っていくことについての虚無感」です。
(2)については、さらに詳しく言えば、虚無感というよりも、実際は「恐怖感」です。
わたくしは、もう既に、相当の期間にわたって、弟子たちに、「一秒の重さ」、そして、「一秒に命をはることの重要性」について稽古してきました。もし、今、英語道弟子課程弟子になることを目指している受講生が本稿を読んだ場合、基盤学習ページ内の教材を勉強しない限り、「一秒に命をはる」という行為がどのような行為であるのか、「具体的な実感」として感じ取り、理解することは難しいでしょう。
総じて、弟子・受講生に限らず、すべての人間は、「人間の命の重さ」についてはしっかりと認識・理解しています。人間はすべて、人生経験を積みながら、人間の命の重さ・尊さについて、「周囲の人々の死」に直面しながら実感し、学んでいきます。
血縁関係を含め、わたくしの周囲の人々も、毎年、数ヵ月に1人は「死」を迎え、この世を去っていきます。人間の死は、決して遠い世界のことではなく、実は極めて身近なことであり、「日常的に経験すること」です。それ故、周囲の人々の誰かが死を迎えるたびに、わたくし自身が「次は自分の番か?」と考えても、何ら不思議のないことです。
「次は自分の番か?」と考えることは、実際、良いことです。なぜならば、そのように考えると、「人間の命の時間の『短さ』」について忘れることなく、毎日、一秒たりとも無駄にしないようになるからです。
本日も、一度、ベッドに入りましたが、また、起き出して、原稿に向き合っています(3:02)。こうしている間も、休みなく、「一秒」を失い続けています。
「命は尊い」、・・・このことは、「今現在に於いて刻む一秒も尊い」ということを意味します。”超自然的”価値観から述べると、「一個の命」と「一秒」は、同じものです。通常、人間は、このことについて、「人生の最終ステージ」、あるいは、「死を迎える直前」に”経験的に”悟ります。
My beloved disciples, I'd like you to spiritually wake up now! I'd like you to risk your life in the presence of one second every day.
"There is no second to waste." It is "arrant nonsense" for you to waste one second in vain. The vicissitudes of life are necessary for you to deeply understand the significance of one second in the whole of your life.