弟子たちには、「生井利幸の英語の音」が見えるでしょうか。
「英語の音が見える」、・・・普通の教育、普通の社会経験では皆無に等しいと断言できるこの「”超越的”・経験」(transcendental experience)は、実のところ、生井利幸の弟子自身、生井利幸の正式神聖指導で賦与される”通り道”(path, process)を通り、その通り道を通る過程に於いて師の指導通りに学習していけば、普通に経験できる「普通の経験」です。
師は、この地球上のすべての人間が持っている「本性」(nature)を踏まえた上で、銀座書斎で学ぶすべての学習者を指導しています。その中で、特に師の弟子たちは、「この本性が持つ『宿命性』から離れ、普通の人々が支配されている『普通』から抜け出すことができるか否か」について、毎日の一秒一秒に於いて、師から試されています。
弟子が師から試されるとは、「弟子が、真理・本質に試される」ということを意味します。
「弟子が、真理・本質に試される」、・・・これはつまり、弟子が、真理・本質の面前で、そこから逃げ隠れすることなく、真正面から、正々堂々と向き合い、そのすべてを自分の中に吸収できるか否かが問われ続けているということです。
「全質変化の行く末」は、師が握っているわけではありません。師は、一事が万事に於いて、すべての弟子たちに対して、普遍的な立ち位置から、完全に平等にすべての正式神聖指導を賦与し続けています。完全に平等な学習条件の下、その質・行く末に影響を与えているのは、言うまでもなく、「賦与された正式神聖指導を受けている弟子自身」です。
「腹を決めて、学び、行動できるか否か」という問題は、実は、人間の本性の根本問題そのものなのです。人間の本性の学習(初歩的学習)は、すでに、すべての弟子たちが経験済みです。弟子たちは、再度、この教材を精読してください。
「生井利幸の英語の音が見えるかどうか」という問題は、同時に、「弟子自身が、どれだけ腹を決めて生井利幸についていっているかどうか」という問題でもあります。最後に、再度、確認します。「師の英語の音」を見る上で、特殊な才能・能力は必要ありません。必要なのは、「正式神聖指導通りに学習を行ってくことのみ」です。正式神聖指導とは、それほどまでに、学習者を劇的に改善・向上・発展させる指導方法(教授方法)なのです。言うまでもなく、この教授法は、世界最高峰の教授法です。
追記:
弟子たちは、本稿で提示した問題、即ち、「人間の本性が持つ『宿命性』から離れ、普通の人々が支配されている『普通』から抜け出すことができるか否か」という問題について、深い思索を試みてください。