世界レヴェルへの道

ホモ・サピエンスとして、"cleanliness"について再哲学する

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"Cleanliness is next to godliness."・・・この理念は、言うまでもなく、わたくし生井利幸が弟子に賦与する正式神聖指導に於ける根幹的理念の一つです。

わたくし生井利幸は、毎朝、必ず、自分自身の解毒を行っています。この解毒は、必ず毎朝行っており、自分自身に於いて、(1)「必要性が”なくても”」、(2)「必要性が”あっても”」、必ず行っている習慣です。

生井利幸に於ける解毒に関して、上記の、(1)「必要性が”なくても”」、(2)「必要性が”あっても”」という考え方・捉え方は、弟子自身、生井利幸によって相当ステージまで引き上げられなければ、この考え方・捉え方に内在する真意について、理性的に認識・理解・咀嚼することは難しいでしょう。

上記の2つは、一体どうして、(1)「必要性が”なくても”」、(2)「必要性が”あっても”」の順番なのでしょうか。通常の順番は、(1)「必要性があっても」、(2)「必要性がなくても」の順番で、考え、捉える問題ではないでしょうか。

数週間ほど前、ある弟子が、師に次のように述べました。「私は、自分は汚いと思います」と。

「自分は汚い」と自分自身を捉える人間。実際のところ、このような人間は、心の中が綺麗であり清潔であるからこそ、このように捉えるのでしょう。その反面、無思索状態のまま、「自分は綺麗だ!」と捉える人間は、実際は「汚い人間」でしょう。

特に、世俗的価値観、固定観念、しがらみ等が蔓延する地域的環境の中で無思索状態で毎日を過ごしていると、人間は、自分の「汚さ」「臭さ」「醜さ」「無知さ」等について”相当”鈍感になり、「自分に於ける真実」について盲目状態であり続ける日々を過ごすことになります。残念、且つ、皮肉な真実ですが、盲目な人ほど、「自分の盲目さ」に気づくことはありません。

生井利幸の弟子に於いては、実に、幸いな存在者です。生井利幸の弟子は、「ホモ・サピエンスとしての自分自身の存在性」をピカピカに綺麗にし、磨き抜いてくれる最高峰の機会を賦与され続ける毎日を過ごしているわけですから・・・。

I Toshiyuki Namai tell you that "The importance of cleanliness holily surpasses all the matters here on earth in this solar system given by God."

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