■2022年5月を迎えた今、「師が、弟子たちに賦与する所感」
1 「弟子に於ける所作・言動の洗練化」の必要不可欠性
一個の人間の所作・言動は、「一個の人間の品格・品位・品性」の鏡である。
外部者の目の中に於いては、「生井利幸の弟子の所作・言動の品格・品位・品性」は、”そっくりそのままの形”で、「生井利幸の品格・品位・品性」として捉えられる。通常、人は、「師と弟子の関係性」をこのように捉える。
2 「知識」(knowledge)と「教養」(culture)についての再考察・再認識
知識は、単に、「ものを知っている」という様相・有様を意味する。一般社会で行われている試験・テストは、そのほとんどが、「知識の量を確認する」ための試験・テストである。
では、「教養」は、「知識」とどのように異なるのか。
3 「人間としての基礎」を構築することなく、「弟子の基礎」を構築することは不可能である
弟子の基礎とは、「生井利幸の”直系”・”直属”の弟子としての基礎」である。この、「”直系”・”直属”」の概念には、如何なる意味・真意が内在しているのか。
4 固定観念が齎す「偏狭な世界観・価値観」
個人差はあるものの、弟子たちは、まだまだ様々な「固定観念」に支配されて生きている。では、不必要・無意味な「固定観念」から離れ、生井利幸の”直系”・”直属”の弟子として日々の一秒一秒を生き、生井利幸によって磨き抜かれていくためには一体どうしたら良いのだろうか。
5 無知が齎す「愚行」
一個の人間に於ける愚行は、一個の人間に於ける「無知・無教養」を源泉として生じる。
6 「常識」と「崇高」の関係性
「常識」と「固定観念」は、それぞれ異なる概念である。弟子に於いては、社会的存在者(社会人)としての常識は必要である。
世の中には、「常識」を踏まえることなく、いきなり「崇高」を崇拝する人がいる(この種の経験は、「本人の無知・無教養」を原因として経験するものである)。言うまでもないが、「社会的存在者としての様々な経験をし、一個の人間として成長していない人」が想像する崇高なステージは、実際のところ、「現実から逃避する夢追い人が”夢想”する『単なる夢物語』」に過ぎない。
生井利幸が弟子たちに賦与する正式神聖指導とは、基礎の基礎から始めて、少しずつ崇高なステージに引き上げていく(1)「現実の学び」であり、所謂、(2)「正真正銘の本物になることを目指す『真の道』」である。