言うまでもなく、「罪人」(criminal, sinner)とは、「『罪』(crime, sin)を犯した人間(地球に生存する”知的生命体”)」を指す一般的概念である。
罪の概念について本質を講じるならば、罪には二つある。まず第一に、「人間が定めた法を犯す罪(crime)」。そして第二に、「神の法を犯す罪(sin)」である。
人間が定めた法を犯した罪人(criminal)は、不完全な人間がつくった裁判所の法廷で、「不完全な人間が審理・判断した判決・刑期」を宣告され、その後、刑務所にてその刑期を全うすれば「罪の償(つぐな)い」が終了する(注1)。
だが一方、宇宙の創造主、即ち、万物の創造主が賦与した法、即ち、「神の法」を犯した罪人(sinner)は、この世の命に於いても、死後の世界の命、つまり「次の世の命」に於いても、その罪から、決して逃れることができない運命を背負う。その理由は、神の法を犯す罪は、「永久不変の罪」であるからである。
生井利幸が賦与する正式神聖指導の範疇・枠組みに於いて犯した罪は、「神の法」を犯した罪と同じである。したがって、正式神聖指導の範疇・枠組みに於いて犯した罪(神の法を犯した罪)は、将来、生井利幸が、この地球上にて自己の身体を使う期間を終了しても、その罪は、その罪人に於いて「神の法を犯した罪」として永遠に残る。
正式神聖指導は、「神の法を犯した、罪人の罪」を贖(あがな)うことができる(注2)。正式神聖指導の範疇・枠組みに於いて正式神聖賦与されるすべての「救済措置」「blessing(祝福)」は、神の法を犯した罪人を救済することができる。生井利幸の弟子は、正式神聖指導の範疇・枠組みの中で、自分が犯した罪をも贖うことができる「神聖なる特権」が賦与されている。
自分の罪に気づき、悔い改める生井利幸の弟子は、正式神聖指導の範疇・枠組みの中で、いつ何時に於いても「神の道」を歩むことができる。一方、自分の罪の面前で「傲慢」「高慢」「鈍感」「怠惰」「非理性性」を続ける弟子は、日々、秒刻みで、「残りの生の『質』『方向性』『行く末』」を台無しにし続ける。そればかりか、そのような弟子は、自己に於ける「次の世の生の行く末」も台無しにする。
罪を犯した弟子にとって、悔い改めようとする日に、「遅い・早い」はない。正式神聖指導の範疇・枠組みに於いて、弟子は、いつ何時(なんどき)でも、「懺悔」「悔い改め」を行うことができる。
人間がつくった法に於いては、悔い改めの「実行の時期」の遅い・早いが存在する。しかし、神の法に於いては、悔い改めの「実行の時期」の遅い・早いはない。
宇宙の創造主である神は、神の法にしたがって善・正義・正道を行う生命体に対して完全に平等である。それ故、この地球上に於いて、罪人が善・正義・正道を行おうとするとき、躊躇はいらない。善・正義・正道は、行おうとするその瞬間こそが、所謂、「最高、且つ、最善の瞬間」である。
神の法が定める善・正義・正道は、正式神聖指導で賦与される正式神聖文書教材『教訓』("The teachings of Toshiyuki Namai for the sake of his disciples")に於いて宣言・明言・明示されている。
注)
1) 「償(つぐな)い」とは、人間の法の下、犯した罪の代償を払うために、自己を反省し、「その罪の”対価”に相当するもの」を返す行為一般の概念を指す。
2) 本文書教材に於ける「贖(あがな)う」とは、神の法の下で、「救済する」「救済される」という意味である。「罪を贖う」とは、「罪から救済する」「罪から救済される」という意味である。本文中の、『正式神聖指導は、「神の法を犯した、罪人の罪」を贖(あがな)うことができる』とは、神の法の下で罪を犯した弟子は、正式神聖指導に於いて賦与されるすべての指導・道・過程を”現実経験”することにより、弟子は、「神の法の下、自分自身が犯した永遠不変(永久不変)の罪から救済される」という意味である。