世の中には、「美しいもの」を目の前にしても、何も感じない人がいます。無論、鈍感な人は「美」(beauty)に対して鈍感ですが、「美に対して何も感じない」ことに於ける最大の理由は、その本人が、雑多な出来事・事物に支配され、「美しい対象物」が「そうした雑多なことの一つ」になってしまっているからです。
美しい経験が、日々の生活に於ける雑多なことの一つになってしまうと、その本人の人生そのものも、雑多な人生となっていきます。わたくしの弟子の中に、雑多な人生をつくっていきたいと考える弟子はいないでしょう。
では、「美しいもの」に対して、極めて繊細に感じ取り、その美しさについて直接経験するにはどうしたらよいでしょうか。弟子の場合は、毎日の24時間に於いて、わたくしの正式神聖指導の下で賦与されている指導通りに、毎日、一秒一秒を刻んでいくことが最も妥当な方法です。
生井利幸に自分の命を預ける弟子のみに与えられる専用パスワードがなければ入ることができない弟子専用ページ(基盤学習ページ、メインページ、そして、さらなる上位ページ)では、「一秒に命をはる重要性・尊厳性・精神性・理性性・神聖性」について、様々な観点から講じられています。
一秒に命をはれない人は、自分の人生そのものにも命をはれません。実は、一秒に命をはるとは、「自分の人生に命をはる」、言葉を換えれば、「自分の生き方に命をはる」ということです。
本質を講じると、「美しい存在物」「美しい存在者」の内側には、鈍感な人には認識・理解できない「尊い命」が光り輝いています。活字の世界、絵画の世界、音楽の世界に於いても、人に感動を与える作品は、その作品の中に「尊い命」が光り輝いています。
芸術・学問・文化に於ける存在物(作品・理論)、そして、それを生み出す存在者に於いても、人の心を掴むその理由は、そこに、単なる命があるのでななく、「眩しいほど光り輝く『命の中心核』」がそこに存在しているからです。
本稿に於いて真実を講じますが、単なる表面的(外面的)命しか見えない鈍感な人には、「表面的(外面的)命の中に存在する『眩しいほど光り輝く命の中心核』の美しさ」を感じることは難しいでしょう。
一秒に命をはれないとは、(1)「自分の命に責任を持たない」、そして、(2)「大切な自分の命を非理性的に放置し続け、自分自身が、世の中の流れ・時間の流れのまま生きているだけ」という確かな証となります。
愛する弟子たちよ、「一秒」に命をはりなさい。一秒に命をはるとは、「自分の『命』(life)に”命”をはる」ということであり、「自分の命に、光り輝く命を吹き込む」ということでもあります。