■生井利幸から弟子への「真のtransubstantiationの構造」
1 「弟子の心の中」を最も理解している存在者
・・・絶対的真理の中に存在する「一つの真理」・・・
「弟子の心の中」を最も理解している存在者は、神ではなく、もともと地域的存在者であった弟子をゼロから引き上げ、「弟子を、少しずつより高いステージへと導いている師の生井利幸」である。愚かな弟子、邪念・雑念に振り回される弟子は、事あるたびに、この「一つの真理」を忘れる。
2 競争相手は、他の弟子ではなく、その時の状況に応じて変化する「自分自身の偏狭な心の持ち方・あり方」である
弟子の等級チャートは、弟子自身が、「正式神聖指導の範疇・枠組みの中で、今現在、自分自身がどこに位置しているのか」について、客観的に把握するために存在する。このチャートは、自分と他の弟子を比べるために存在するのではない。
他の弟子が引き上げられるたびに、心が動揺し、右往左往する弟子は、「意味のない『地域性』」から離れられない弟子である。
3 引き上げられるスピードは、弟子によって異なる
弟子は、「弟子が引き上げられるスピードは、弟子によって異なる」ということを知りなさい。引き上げられるスピードが速い弟子は、身が軽い弟子である。身が軽い弟子とは、本人なりに、師が正式神聖賦与する正式神聖指導にしたがって、地域的要素、固定観念、自己中心的エゴ、自己陶酔等を取り除き、自己の身を軽くしている弟子を指す。
4 引き上げられるスピードが違うとき、「それぞれの弟子の心の中の真実」が表に出る
時として、短期間に身を軽くできた弟子が、非日常的なスピードで、より高いステージへと引き上げられることがある。このとき、他の弟子の心の中で、「何らかの嫉妬心・妬み」が生じることがある。
この弟子の様相について、師は、そのすべてを見抜いている。
真実を述べると、「師がそのすべてを見抜いている」というよりは、弟子の心の中でそのような心情が生じる前から、「師は、最初から、起こり得るすべてを予知し、その”すべて”を織り込んで、弟子たちに於ける真の発展・幸福を実現するべく正式神聖指導を行っている。
5 人間は、神に祈ることはできるが、直接、対話することはできない
正式神聖指導の範疇・枠組みの中で、弟子が自分のことで対話できる相手は、一事が万事に於いて、師である生井利幸である。これと同時に、弟子を最も良く理解している存在者も生井利幸である。このことを理解できない弟子に於いて、生井利幸から弟子へのtransubstantiationを継続的に体験具現することはない。
上記の、「人間は、神に祈ることはできるが、直接、対話することはできない」は、聖書に書かれてある「神の教え」である。時として、神と対話したと述べる人間がいるが、それは、個人的想像として「神と対話した」という如き、<ローカル、且つ、プライベートな、”心の中の願望”>を述べているに過ぎない。
弟子たちよ、ほんの少し、知性的に考えなさい。生(なま)の人間が、神と対話するという想像は、未開人・野蛮人・非文明人が持つ”無知”から生じる「傲慢・高慢・愚かさそのもの」であるということを。
A little learning is a dangerous thing.
(無知ほど、危険な代物はない。)
Ignorance is bliss.
(無知は幸いである(知らぬが仏)。・・・”皮肉的”教訓・・・)
6 「正式神聖賦与」と「明示」
「弟子の立ち位置」(disciple's position)が、弟子の等級チャートに於いて新しく「明示」された場合、それは、弟子が自分自身によって自分を世俗化し、毒し、一度、正式神聖賦与された立ち位置を「無」にしてしまったことを意味する。
一方、正式神聖賦与されたより高いpositionは、「弟子が、生井利幸によってどの程度引き上げられたか」を表している。
補足:
既に何度も教授しているが、「明示」とは、弟子が、自分で自分自身を世俗化し、汚し、毒することにより、既に正式神聖賦与された自分の立ち位置から離れ、より低い位置に戻ってしまったことを意味する(明示する)ものである。
7 弟子の等級チャートは、「大学受験で経験する偏差値のような”ローカルなチャート”」ではない
生井利幸が正式神聖賦与する正式神聖指導の範疇・枠組みの中で教授する学問(学術)・文化・芸術は、実際のところ、世界レヴェルを遥かに超えた超越的ステージである。弟子たちには、相当期間にわたって、その概要を教授し続けている。
相当期間にわたって繊細・詳細に教授され続けているにもかかわらず、時として、何らかの地域的要素・固定観念に影響され、このことについて盲目になってしまう弟子は、直ちに、自己を浄化し、自己に於ける純粋性・透明性を再構築しなさい。
弟子の等級チャートは、「神聖性」「普遍性」を根源とする神聖的チャートである。弟子たちは、弟子の等級チャートは、「大学受験で経験する偏差値のような”ローカルなチャート”」ではないことを、再度、自分の命に刻みなさい。
8 宇宙の創造主・『絶対神』から直結する、『生井利幸から弟子へのtransubstantiation』
・・・大枠としての、transubstantiationの構造・・・
「宇宙の創造主、『絶対神』」 ⇒ 「『絶対神』と『絶対神の子であるイエス・キリスト様(神)』」 ⇒ 「宇宙」 ⇒ 「太陽系が属する銀河」 ⇒ 「太陽系」 ⇒ 「地球」 ⇒ 『人類(地球の大気圏の中に点在する塵のかたまり)』 ⇒ 「人類の救世主、イエス・キリスト様(絶対神の子である神)の血」 ⇒ 「生井利幸の血」 ⇒ 「塵(一個の人間)の血」
◆正式神聖英語音声講義
⇒ The meaning of blood you receive from Toshiyuki Namai as his disciple(正式神聖英語音声講義)
9 弟子が「より高い立ち位置」を正式神聖賦与され続けている限り、引き上げられるスピードに関係なく、それは「神の祝福」である
すべての弟子に於いて、「以下の如き真実」について、再度、説明するには及ばないことである。
・・・真実・・・
弟子自身、神と師から、「より高い立ち位置」を正式神聖賦与され続けている限り、引き上げられるスピードに関係なく、それは「神の祝福」である。引き上げられるスピードは、弟子自身の重さ・軽さ、即ち、「弟子がどれだけ固定観念・地域的要素・自己中心的エゴ・自己陶酔・世俗的欲等を取り除いたか」によって違ってくる。弟子は、引き上げられるスピードについて、事あるたびに心配する必要はない。
「明示」された場合は、改善するべき何らかの要素がある。しかし、「正式神聖賦与」されている場合は、何ら、心配する必要はない。弟子が正式神聖賦与された自分の立ち位置について、それを「神の祝福」と捉えず、喜びを感じない場合は、その弟子自身に於いて、(1)「弟子の等級チャート」と(2)「偏狭な地域性の中で無意味に経験した『偏差値教育』」を同じこととして捉えてしまっている証となる。
前述に該当する弟子は、今一度、目を覚ましなさい。生井利幸は、絶対的真理・真実・本質の面前で弟子が盲目・鈍感になったとき、どのように目を覚ましたらよいか、既に、何度も何度も教えている。
最後に、もう一度講じる。弟子の等級チャートにて、弟子の立ち位置が新しく「明示」された場合は、その弟子に於いて、何らかの問題点が存在する。しかし、「正式神聖賦与」されている場合は、弟子は、100パーセント引き上げられており、100パーセント前に進んでいる。100パーセント前に進んでいる弟子が、チャート上で、<誰が上、誰が下>と捉え、自己の平常心を失い、学習ペースを乱す弟子は、そうした自分自身の「偏狭、且つ、汚れた心の持ち方・あり方」を洗い直しなさい。このことに関して、師は、常に、「弟子の心の中の有様」を見通している。