■「生井利幸の”超越的特殊性”に基づいた『趣向』『テイスト』『こだわり』」を知り、弟子自身もそれを行う経験が、「生井利幸の英知・美意識への『入口』」となる
生井利幸から弟子へのtransubstantiationを介して、賦与されるすべての稽古に於ける「超越的特殊性」をしっかりと捉え、「生井利幸の英知・美意識」を体験具現するには、以下の如き具体的経験が必要不可欠となる。
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<必要となる具体的経験>
実際に「真理の道」を教え導いている生井利幸の「趣向・テイスト・こだわり」を知り、”弟子自身も”、その,「生井利幸の趣向・テイスト・こだわり」を経験し、それを毎日の生活に於いて実践する。
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生井利幸から弟子への全質変化を体験具現する過程に於いて極めて重要な経験は、上辺だけの”形式的経験”ではなく、「『生井利幸の理性性の中心核』(the core which exists in the sphere of Toshiyuki Namai's rationality)を礎とした”実体的経験”」を何度も繰り返していくことである。生井利幸が正式神聖賦与するすべての稽古は、生井利幸による”超自然的”、且つ、”普遍的”教授方法を介して、弟子たちに於ける「より鋭敏なる知性性・理性性・感性性・美意識性の構築具現」を目指す正式神聖稽古である。
生井利幸の稽古を受講するとき、他の何よりも第一に、「受講する弟子自身が『豊かな心』を持っている」ことが大前提となる。言及するには及ばない真実であるが、生井利幸の稽古を受講するとき、何らかの基礎知識を必要とすることはない。生井利幸の”直系”・”直属”の弟子は、「何らの基礎知識を必要とすることなく、世界レヴェルの知性性・理性性・感性性・美意識性を構築具現できるという如き機会は、国内外に於いて実に皆無である」という真実を認識・理解する必要がある。
極めて重要な教授内容であるので、再度、講じる。弟子は、まずはじめに、生井利幸が正式神聖賦与する「すべての稽古に於ける超越的特殊性」をしっかりと認識・理解・咀嚼する必要性がある。「生井利幸の英知・美意識」を体験具現するには、実際に真理の道を教え導いている「生井利幸の趣向・テイスト・こだわり」を知り、弟子自身も、その「生井利幸の趣向・テイスト・こだわり」を経験し、毎日の生活に於いて実践していくことが、そのための”理性的大黒柱”となる。毎日の生活に於いて、「生井利幸の趣向・テイスト・こだわり」を実践していく(経験していく・行っていく)ということ自体が、”そっくりそのまま”、生井利幸の英知・美意識への入口となる。このことは、所謂、普通の人々(固定観念に支配されている平凡人)に於いて理解することは極めて難しい。
・・・正式神聖教示・・・
正真正銘の本物の弟子は、「生井利幸の趣向・テイスト・こだわりを知り、それを行う」という経験について、これを「至上の喜び」(sheer bliss)であると捉える。弟子に於いて、この経験を「至上の喜び」と捉えることなしに、生井利幸から弟子へのtransubstantiationの体験具現が成立することはない。