■「生井利幸の『命』」である英語道弟子課程
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英語道弟子課程は、「寝床のない、全寮制の神聖なる学問所」である。さらに述べるならば、英語道弟子課程は、「生井利幸の『命』」そのものである。
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英語道弟子課程は前述の如き存在であるから、同課程で、わたくし生井利幸が弟子に教授する教授内容・教授方針に於いて、「妥協する教授内容・教授方針は”一切ない”」。
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絶対的真理への道のりを教え導くための教授内容・教授方針について述べるとき、そこに妥協(「弟子本人が既に満足しているから、”この程度”のことを教えれば十分だろう」という如き、一般社会に存するほとんどの指導者が行う妥協)があってはならないと、わたくし生井利幸は断言する。
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わたくし生井利幸は、いつ何時でも、一事が万事に於いて、「弟子本人にとって『最高の教授内容』」を正式神聖賦与することを、わたくしの父、即ち、「万物の創造主である『神』」に誓っている。
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英語道弟子課程は、一事が万事に於いて、弟子が正真正銘の本物を目指すための「正真正銘の神聖なる学問所」である。
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この神聖なる学問所は、「わたくし生井利幸の『命』」そのものである。この真実は、わたくしに自己の命を預けている弟子に於いては、まさに、「説明を必要としない正真正銘の真実」である。
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生井利幸が教授する学問・文化・芸術は、”既に印刷されてある書物”を源泉とするものではない。生井利幸が教授する学問・文化・芸術は、そのすべてが、「生井利幸の命を源泉とするもの」、即ち、「生井利幸の命の中に生き続けているもの」である。