■「我」は、transubstantiationを不可能にする
<1>
弟子が生井利幸によって引き上げられることを邪魔するものは、弟子自身がネガティブに支配されている「偏狭、且つ、安っぽい『我』」である。この種の「我」は、transubstantiationを不可能にする。
不必要なしがらみから離れ、健康・健全な心を基盤として「自己中心的な我」を捨てる弟子は、本日のこの瞬間から「小さなtransubstantiation」を経験する。
知識欲から、機械的に「英語音声講義」、及び、「文書教材」のノートをつくり、欲からそれを表面的に暗記しても、弟子の存在性の中に「生井利幸が賦与する英知・美意識」が残り、宿ることはない。
<2>
「自分を見てもらいたい」という自分本位な欲に支配される弟子は、時に、師に対して「不必要な嘘」をつく。師は、そのような弟子が発する「不必要な嘘」について、弟子自身がこの嘘を発する瞬間、「これは嘘である」という真実を見通す。この場合、弟子は、一秒でも早く、「この嘘について、師に対して開示し、懺悔する」ことが必要である。
弟子は、嘘について開示し、懺悔すれば、後の人生に於いて、「長年にわたって、その嘘を自分の背中に背負う必要性」から解放される。
・・・正式神聖教示・・・
生井利幸の”直系”・”直属”の弟子は、(1)「命をはって、師の英知・美意識を引き継ぐ経験」と、(2)「”命で”、師の英知・美意識を引き継ぐ経験」の違いを知りなさい。
生井利幸の”直系”・”直属”の弟子には、「”自分の命”で、師の英知・美意識を引き継ぐ『特権』」が正式神聖賦与されている。
「生井利幸の子供になる」ということは、「世俗的な欲・しがらみから完全に離れ、純粋無垢の状態で、生井利幸の精神性の中に生きる」ということである。
愚かな弟子は、時として、自分を律し、戒めることを忘れる(怠る)。自分を律し、戒めることを忘れる弟子は、自分自身によって「生井利幸から正式神聖賦与されたすべて」を大崩壊させ、過去の自分(元々の自分)に戻る。
神の法の下、「生井利幸が正式神聖賦与する正式神聖指導の範疇・枠組み」に於いて、自分を律し、戒めることを忘れる弟子は、「生井利幸によって神聖的に引き上げられる」という如き”超越的”、且つ、”神聖的”経験をすることは完全に不可能である。