本稿では、弟子たちは、弟子の基礎として、『1)「銀座書斎の空気感を読む」という概念は、所謂、2)「生井利幸の空気感を読む」という概念と完全に同じ概念である』ということについて、しっかりと、且つ、必要十分に認識・理解し、”理性的”咀嚼をしなさい。
生井利幸が正式神聖賦与する正式神聖指導の範疇・枠組みに於いて、弟子が生井利幸との垂直関係を構築し、維持するためには、以下の如き事項について自身の命で捉え、理解し、咀嚼し、実行することが必要不可欠である。以下の事項について指導通りに捉え、理解し、咀嚼し、実行することなしに、正式神聖指導の範疇・枠組みに於いて、生井利幸によるtransubstantiationを介して、「精神性」(spirituality) ⇒ 「理性性」(rationality) ⇒ 「神聖性」(holiness)へと引き上げられることはない。
このことは、逆に考えるとわかりやすい。もし、わたくしが、弟子に、『弟子が、「精神性」⇒「理性性」⇒「神聖性」へと引き上げられることは簡単である』と言うならば、真の弟子ならば、「そんなはずはない」「簡単であろうはずがない」と考えるに違いない。
では、以下、弟子が生井利幸との垂直関係を構築し、維持するために必要となる事項について列挙する。
1 平凡人には理解の及ばない、生井利幸の”超越的”理性性のメカニズム
生井利幸の思考メカニズムは、通常人の思考メカニズムとは全く異なるメカニズムである。これをわかりやすく述べると、生井利幸は、学術研究者であると同時に、作家である。
弟子は、全力を尽くして、生井利幸に於ける「学術を行うと同時に、創作を行う」という思考メカニズムについて、しっかりと認識・理解する努力をしなさい。この、「平凡人には理解の及ばない、生井利幸の”超越的”理性性のメカニズム」についてしっかりと捉え、知るには、生井利幸の下で、相当年数にわたって学び続けることを必要とする。
2 弟子に於けるtransubstantiationの不可能性について
固定観念、地域的要素、及び、自己中心的エゴから離れられない弟子に於いては、生井利幸が弟子に対して何をどのように指導しても、「生井利幸から弟子へのtransubstantiation」を体験具現することはない。
transubstantiationについては、既に、数え切れないほどの文書教材、及び、英語音声講義を賦与している。弟子は、各自、自分の判断で、必要と思われる教材についてしっかりと復習すること。
3 欲は身を亡ぼす
欲で勉強することは、頗る「醜い勉強」である。弟子は皆、美しい存在者になることを切望している。弟子たちよ、「欲で勉強しても、真の知識・教養は身に付かない」という真実を知りなさい。
4 欲を源泉とする我は、transubstantiationを不可能にする
弟子が生井利幸によって引き上げられることを邪魔するものは、弟子自身がネガティブに支配されている「偏狭、且つ、安っぽい『我』」である。この種の「我」は、transubstantiationを不可能にする。
◆英語音声講義
⇒ The most harmful enemy against you is "selfishness" in you.(英語音声講義)
5 生井利幸から弟子たちへの最大のプレゼントの一つ、Quasi-Ginza sanctuary
自分を確立できない人の”典型的”人物像は、「『孤独を愛する』という必要不可欠性を理解できない人」である。本稿に於いて言及するには及ばないが、学術・文化・芸術等で身を立てることができる人は、無意味に他人と群れることを回避し、「完全孤立の必要不可欠性」について必要十分に認識・理解し、その完全孤立を実行する人である。
Quasi-Ginza sanctuaryは、生井利幸の”直系”・”直属”の弟子専用稽古場である。この稽古場は、「孤独を愛することの必要不可欠性」、そして、「孤独であることの美しさ」を”学び抜き”、それを現実経験できる、「弟子にとっての、唯一無二の、清らか、且つ、神聖なる稽古場」である。
6 Quasi-Ginza sanctuaryに関して、生井利幸が弟子に正式神聖賦与した「特権」(privilege)
1) Quasi-Ginza sanctuaryとは、生井利幸の”直系”・”直属”の弟子専用稽古場である。
2) Quasi-Ginza sanctuaryは、「生井利幸から弟子へのtransubstantiation」を体験具現するために存在する。
3) 弟子は、”銀座書斎の真上”に存在するQuasi-Ginza sanctuaryに於いて学習活動を行うことによって、生井利幸”直系”の弟子として、「生井利幸の精神性の範疇・枠組み」の中で、自己を世俗社会から「完全分離」「完全独立」させることができる。
4) Quasi-Ginza sanctuaryに於ける学習活動は、「この地球上で最高峰の精神修養の場」である。この真実は、Quasi-Ginza sanctuaryに於ける学習活動は、「銀座書斎・自習室に於ける学習ステージ」を遥かに超越することを意味する。
5) Quasi-Ginza sanctuaryは、生井利幸から弟子に対して正式神聖賦与された、「生井利幸の英知・美意識」を体験具現するための”唯一無二の究極的聖域”である。
6) 弟子は、Quasi-Ginza sanctuaryでの学習経験を積み重ねながら、「自己に関係する『真実』、及び、『真理』」について知る特権が賦与されている。地球に生息するほとんどすべての人間は、「自己に関係する『真実』、及び、『真理』」について知らないまま生き続け、「自己の身体を使う期間」(人生)を終了してしまう。
7) 弟子は、Quasi-Ginza sanctuaryに於いて、「宇宙の時間に於ける『1秒』と『100年』は、何ら大きな違いはない」という真実について、自己の身体で経験実現する特権を賦与されている。
8) Quasi-Ginza sanctuaryは、生井利幸が、”直系”・”直属”の弟子を、「真の理性的存在者(a genuine rational existent who "genealogically" inherits rationality from Toshiyuki Namai)として育て、仕上げる」ことを目的として現実存在する弟子専用稽古場である。弟子は、Quasi-Ginza sanctuaryにて、「弟子が生井利幸から引き継ぐ"'genealogical' rationality"(”系統的”理性性)」について、”極めて具体的に”体験具現する特権を賦与されている。
◆生井利幸の”直系”・”直属”の弟子に正式神聖賦与した「宣言」
⇒ The declaration of "Quasi-Ginza sanctuary"(正式神聖英語音声講義)
7 Quasi-Ginza sanctuaryに於いて経験する、「静寂の中で維持する『無会話』」の美しさ
正真正銘の本物を目指す弟子、即ち、生井利幸がこの地球上で生きている間に「第1等級弟子(世界レヴェル): disciple elevated」になることを目指す弟子であれば、Quasi-Ginza sanctuaryにて、「完全孤立の状態の下、自分一人で静かに学習しているときに体験する『美意識』『美の世界』」については、既に、数え切れないほど体験し、その美しさに魅了されているに違いない。
「一人でいるのが寂しいから、わざわざ相談事をつくって銀座書斎のドアーをノックして、師と話をする」、・・・この種の行動を採る弟子に於いて、transubstantiationを体験具現する道理はどこにもない。また、この種の行動は、同時に、「師の、命と時間」を無駄にすることを知りなさい(師は、暇な人、寂しい人に対して、「雑談する時間」を提供するために銀座書斎を開設し、維持し続けているわけではない)。
弟子たちよ、静寂の中で維持する「無会話の美意識」という崇高なるステージを知り、存分に味わいなさい。「無駄な話をしない」という有様は、1)「ある程度、悟っている人」、または、2)「ある程度、到達している人」に於いては、まさに、美しい有様として捉えられる。
8 弟子が銀座書斎内部に入ったとき、師が「自身の空気感」を変えることはない
弟子は、銀座書斎に入るとき、「最大・最高の注意」を払いなさい。その理由は、本稿冒頭で講じている。
・・・弟子たちは、弟子の基礎として、『1)「銀座書斎の空気感を読む」という概念は、所謂、2)「生井利幸の空気感を読む」という概念と完全に同じ概念である』ということについて、しっかりと、且つ、必要十分に認識・理解し、”理性的”咀嚼をしなさい。・・・
生井利幸が、何らかの不必要な理由で、「本来の生井利幸でない行動」を採ったとき、その時点で、弟子にとっては、大きな「学びの機会の損失」となる。弟子にとっては、「師である生井利幸が、自然な状態で、自身の空気感を出し続けている」ということが、最も実りのある時空間となる。
9 「生井利幸の空気感を読む」という、弟子に賦与された訓練
「弟子が銀座書斎に入室する」という行為は、言うなれば、生井利幸の”直系”・”直属”の弟子に賦与された「訓練」(discipline)である。これをわかりやすく述べるならば、以下の如き説明となる。
1) 受講生に対する、生井利幸の発言・コミュニケーションの方法
ほとんどすべての案件について、様々な固定観念・地域的要素の下で生きる存在者にもわかるように、必要十分に変換して、「地域社会に於ける『妥当性』(reasonability)」を生じさせるべく、地域性の範疇・枠組みに於いて、最も妥当なる方法で<地域的コミュニケーション>を図っている。生井利幸に於いては、地域的ステージまで下りて地域的コミュニケーションを図ることは、相当なるエネルギーを消耗する行為である(生井利幸自身、銀座書斎の中にいても外にいても、背中の激痛の原因の一つは、ここから来ている)。
2) 弟子に対する、生井利幸の発言・コミュニケーションの方法
多くの案件について、できる限り、普遍的観点から「永久不変の真理・真実・本質」を教授するべく、個々の案件についてほとんど変換することなく、教え導くべきことを教え導いている。弟子は、この点に於いて、「弟子としての醍醐味」を見出すことができる。---The disciples are holily privileged to be transcendentally disciplined by Toshiyuki Namai.